恢徳堂のヨーシャさんのブログ

障がいの社会モデルからオタクとフェミニズムの対立、そして「ゲーム依存症」問題を考える

March 17, 2021

はじめに

この記事はどうして我々はコッコロちゃんをママにしてしまったのかの続きの記事です。
なお、記事の公開が1月7日でしたが諸事情により遅れてしまい申し訳ありませんでした。

さて、今回の論旨は「障がいの社会モデル」ということを頭に入れると「オタクとフェミニズムの対立」の問題も「ゲーム依存症」の問題もスッキリと解けそうということです。

「障がいの社会モデル」とは

ここで、「障がいの社会モデル」という言葉を紹介します。

「障がいの社会モデル」とは、「障がいの原因は個人の心身機能(能力)にある」という「障がいの医学モデル」に対立する、「『障がい』は社会(のモノ、環境、人間関係など)と『個人の心身機能(能力)』のギャップがあることからうまれる」という考え方です。この考えで行くと、人は誰もが「障がい者」になり得るわけです。例えば、2階に上るのに階段しかないという環境があるとします。これは歩ける大多数の人にとっては普通の階段ですが、段差を上るのが極めて難しい車椅子の人は大きな障壁になるわけです。ここにエレベーターがあれば車椅子の人も2階に上がることができますが、「障がいの社会モデル」によれば、これで「障がい」が解決されたと考えるのです。

同様に、海外へ行ったときのことを考えてみましょう。英語圏に行って、コミュニケーションを英語で行わなければいけない場面に遭遇したとします。英語を母語とする人にとっては難なくコミュニケーションができますが、英語の理解があやふやだったりなかったりすると英語でのコミュニケーションは成り立ちません。そんな場面において「英語を勉強しろ」というのは「障がいの医学モデル」的な考え方だといえます。ここで同時通訳が入って英語のコミュニケーションを日本語に翻訳したり、IT機器を使って英語を翻訳するとコミュニケーションがとれるようになるわけです。これも「障がいの社会モデル」的な考え方といえるでしょう。

これをふまえると、「障がいの社会モデル」という考え方は、自己責任論と異なる考え方であることがわかると思います。

「オタクとフェミニズムの対立」問題は社会の側にも原因がある

それを考えると、最近SNS上でよく見かけるようになった「オタクとフェミニズムの対立」も、私はどちらの集団も「社会から疎外された」集団であると思うのです。

女性の地位が低く、色目で見られるということは「男性中心の社会」から疎外された存在だからだと私は考えます。自らを「オタク」と自負する女性エンジニアである千代田まどかさんの定義によれば、「オタク」は「"推し"に対して 並々ならぬ愛 を持っており、それに対し 時間や労力、お金などを投資している 人」とポジティブに考えていますが、女性の地位向上と差別の解消を求める「フェミニスト」から見ると、「オタク」は「女性を蔑視し、女性差別をする『男性中心の社会の一員』」とみなしている人にしか見えないわけです。その状態で「女性の尊厳を傷つける(ように見える)」創作物を目にしてしまうと、「フェミニスト」からしてみれば自分たちはモノ扱いされて疎外されていると感じてしまうのです。

その一方で、「オタク」も「コミュニケーション能力を重視する社会」から疎外された存在であると私は考えます。オタクにはコミュニケーションが苦手であると自負する人が少なからずいますが、学校内において「コミュニケーション能力の有無」で人を判断し、階層構造でヒエラルキーを作る「スクールカースト」においては下位層に位置する場合も多く、そのため「キモい」とみなされてコミュニケーションの輪の中から疎外される人も多いわけです。そんな、コミュニケーションの輪の中から弾かれた「オタク」から見れば、「フェミニスト」は「リア充」の一員であり、「オタク」を弾圧する存在に見えてしまうわけです。

ここで、どちらの集団も「疎外された」人たちであるという点に注意を払う必要があります。この「疎外された」人たち同士の対立を利用して「分割統治」することによって「コミュニケーション能力の高い、社会的に成功している男性」が得をしていると私は考えます。いわゆる「オールド・ボーイズ・ネットワーク」なわけです。そして、彼ら「オールド・ボーイズ・ネットワーク」はコミュニケーション能力が弱いことを自己責任としながら、既存の女性差別の構造にあぐらをかいていると考えます。その考え方の表れが2010年の東京都青少年健全育成条例の「改正」に現れているといえるでしょう。
こんな状態で「相互ににらみ合って」いても、「オタク」や「女性」の疎外が解決できるとは思えないのです。

「ゲーム・ネット依存症」問題も社会の側にも原因があるという意味では同じだ

さらに、私は最近話題になっている「ゲーム・ネット依存症」の問題も個人の側よりむしろ社会の側に問題があると考えています。

先日、母親に医学部を受けることを強制され、携帯電話を取りあげられたり家出しても連れ戻して勉強させられたりと様々な抑圧を受けたあげく進路選択に失敗し、耐えきれずに母親を殺害してしまった女性に懲役10年の実刑判決が下ったことが話題になりましたが、スクールカーストやいじめなどの人間関係で苦しむ子どもたちから遊び場を取りあげ厳しい生徒指導と「ブラック部活」で学校に縛り付け、受験戦争に勝利しないと未来はないということを押しつけている社会の側が、子どもを生きづらくし、「ゲームに依存してしまう」環境を作り出しているのだと思っています。

ここで有効なモデルは「子どもたちをゲームやネットから隔離し、依存しないように教育する」医療モデル的な考え方ではなく、「ゲームやネットに依存してしまう状況を作り出しているのは大人の側だと認めつつ、子どもたちにゲームやネット以外に逃げ込める場所を作る」、社会モデル的なアプローチが重要であると思えるのです。

「オタクを取り巻く状況」を未来志向で考えていくには

私は、この問題を解決するには社会の側が「オタク」も「女性」も疎外しないようにコミュニケーションをとり、「障壁」を打ち砕いていくことが大事なのだと思います。この、「疎外されている」人たちが「連帯」しない限り、お互いを「疎外」する社会の問題を解決することは不可能だと思います。そのためには、自分たちこそが正しいという考え方を捨て、「相手に共感して寄り添い、傷ついた心を癒やしながら、お互いを尊重して建設的に意見を出し合い、疎外を乗り越える」ことで解決すると思われるのです。

私は、全ての人が手をとりあってお互いを赦しあえる社会のために、なるべく多くに人と「やさしさ」を分かち合いたいと考えています。